2010年11月25日

時代劇の最高傑作は?

時代劇の最高傑作は?

 時代劇といえば水戸黄門ですが、実は私、時代劇大好き人間なんです。特に初代黄門様(東野英次郎)がでてくる『水戸黄門』がお気に入りです。安心して見てられるし、助さんも格さんも宮本武蔵より強いし、絶対に相手を殺さない。ただ懲らしめるだけで、残酷なシーンがありません。

 それに比べると『大江戸捜査網』や『桃太郎侍』や『必殺』は残酷ですね。敵を一人残らず叩き切ってしまう。でも『遠山の金さん』は敵を殺しませんね。殺してしまったら御白洲の御裁きができなくなってしまう。

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 ところで初代遠山の金さんを演じていたのは誰なのかか知ってますか? 『伝七捕物帳』で伝七を演じていた中村梅之助なんですね。これが最高に面白かった。数ある時代劇の中でも最高傑作だと思います。

 この中村梅之助演ずる初代遠山の金さんは、いかにも遊び人という感じでガラが悪かった。そのうえ詐欺師でした。詐欺によって事件を解決するわけですから映画『スティング』の時代劇版といってもよいかもしれません。

 そのくせ初代遠山の金さんは、スーパマンではなかった。悪人と戦っても強くないのです。もちろん相手を殺す事などありません。殺してしまったら御白洲の裁判ができませんから。じゃあ、どうやって悪人を退治するかと言うと、

@悪人どもが悪の相談をしているところを発見する

A「見ちゃった聞いちゃった」
 「あんたの悪事を聞いちゃった」
 と悪人たちの前に現われる。

B刺青の桜吹雪を見せて大騒ぎをおこす。
 すると町方の人間が、
 つまり今でいう警察関係の人が治安を回復するために
「御用だ! 御用だ!」
と集まってくる。それでおしまい。たくさんの御用ちょうちんが迫って来るシーンで終りなのです。悪人を取り押えたり、悪人と壮絶なバトルをすることは一切ありません。

 そしてシーンが変って御白洲。
 太鼓の鳴響く音。
 町奉行遠山金四郎が、正装姿でものものしく登場。
 そして金さんは、いかにも役人という顔で吟味。

 しかし、悪人たちは、バトルで負けた訳でもなく、捜査で捕まった訳でもなく、ただ治安を乱したという別件逮捕で捕まっているので納得がいってません。だから御白洲の捜査に不満タラタラ。

「証拠はあるのかい!」

と開き直るわけですが、悪人たちの気持ちは分からないではありません。だって別件逮捕なんですから。

 しかし、中村梅之助が扮する初代遠山の金さんは、例の桜吹雪をだして、有無を言わさず有罪判決に持っていくのです。ああ、なんという判決でしょうか。これはもう裁判なんてものではありません。そして最後に

「これにて一件落着」

としめます。

 それから中村梅之助の初代遠山の金さんの凄いところは、管轄外の悪人たちを懲らしめるところにあります。町奉行というのは、町人の犯罪しか裁けなかったわけですが、初代遠山の金さんは、旗本や大名といった大物。つまり自分より身分の高くて、権力をもっている人間を懲らしめたからたまりません。

 え?
 どうやってこらしめたかって?
 詐欺によって懲らしめたのです。

つまり、こうです。初代遠山の金さんの友人である貧乏寺の住職を、絶対権力をもつ上野寛永寺の大僧正に化けさせ、正々堂々と江戸城の中に入り込みます。あまりにも正々堂々としているので、門番も疑いません。そして江戸城内の将軍様のいる奥座敷で悪大名や悪旗本の前に登場させて、

「おまえの悪事を将軍様に告げ口するぞ」

と威して悪事をやめさせたり慰謝料をふんだくったりします。なんともすごい詐欺行為ですが、これがなんとも面白かった。あれに比べると西郷輝彦や松方弘樹や杉良太郎や高橋英樹や橋幸夫の『遠山の金さん』なんて、まるっきり面白くないです。
posted by ss at 10:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

青春ド真中!

青春ド真中!

 このドラマは、当時高校2年生だった私が、リアルタイムで見ていました。しかし、はじめて『青春ド真中』を見たときに違和感を覚えました。だから感情移入するまで時間がかかりました。というのも、この青春学園ドラマは、それまでの青春学園ドラマのパロディーとして作られていた側面が少なからずあったからです。

 1978年当時は、青春学園ドラマ全盛の頃でした。
 そして青春学園ドラマの多くは

『素晴らしい先生が、落ちこぼれの生徒を、スポーツと教育への情熱によって導く』

という感じになっていました。それまでの青春学園ドラマの多くは、そういうパターンのドラマだったわけです。ところが、『青春ド真中』は、そういうドラマではないのです。

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 このドラマの主人公は、道徳的な部分から程遠く、無茶苦茶な人間であり、先生らしくない先生が教師として学校に赴任してくるところから始まるのです。それに対して生徒の方は、まるで逆で品行方正なんですね。大人なのです。

 先生が子供で
 生徒が大人。

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 しかも、学園ドラマの定石であるところの『ツッパリ君』たちが、存在してないんですね。『落ちこぼれ君』はいますけれど、先生の情熱で改心すべきワルというわけではありません。むしろ先生よりも、常識人で、大人なんです。そして、この大人びた生徒たち、そういう存在を相手に、子供じみた先生が格闘するというドラマなんですね。生徒と先生が、まるで逆転してしまったドラマなんです。詳しくは、下記のHPへ

http://kaze3.net/seisyun/index.htm

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posted by ss at 10:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NHK少年ドラマシリーズ『星の牧場』

NHK少年ドラマシリーズ『星の牧場』

 NHK少年ドラマシリーズは、昭和47年、私が小学6年生の時に「タイムトラベラー」からスタートした、子供向け連続ドラマのことです。子供向けとはいえ、私の父も一緒になって見ていましたから大人も見ていた少年ドラマであったことは確かです。最初は週一回・土曜日の放送でスタート。その後、月〜水の帯時間に移行。少年ドラマシリーズ+人形劇という定番となりました。

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 この少年ドラマで、思い出深いのは、
 『星の牧場』というドラマでした。

 小学生の頃、『タイムトラベラー』というNHKの少年ドラマに出会って以来、たくさんの少年ドラマシリーズを私は楽しんできました。その中でも、最も心に残ったドラマが、この『星の牧場』だったでした。

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 原作の庄野英二さんの童話も読み、映画の『星の牧場』も見ましたが、私にとっては、やはりNHKの少年ドラマシリーズで見た、『星の牧場』が一番でした。やがて私は旅に出て、北海道の釧路牧場ユースホステルで働きました。そこのペアレントも『星の牧場』のファンで、私が働いている間、釧路牧場ユースホステルを『星の牧場ユースホステル』に改名し、 数年後、そのペアレント後を追うように、私もユースホステルを開業しているのでした。


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 「星の牧場」は、こんなお話です。
 記憶を失った青年がいました。
 悲しい事にあって記憶をなくしたのでした。

 そんな彼は山にさまよいジプシーたちに出会いました。青年は彼らと仲よくなり一緒に暮らしました。ジプシーたちは暖かく向い入れてくれ、なんとか青年の記憶を戻そうと一生懸命努力してくれました。しかし青年は、記憶を取り戻すとジプシーたちに別れさえも告げずに、山を捨て里に帰ってしまったのです。

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 山は旅先、
 里は都会、
 記憶は現実、

 青年を旅人にあてはめてみれば、この物語は、現実を忘れて北海道をさまよう旅人の話しなのかもしれません。ひょっとしたら、この青年は自分自身のことかもしれないと思えてさえきます。そう思うと、いてもたっても居られなくなるのは、余程ジプシーたちの事が私の心の底にひっかかっていたにちがいありません。

http://kaze3.com/hoshino/

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2009年09月22日

俺たちの旅

俺たちの旅


―俺たちの旅―

 二十年前に放送されていたテレビ番組に「俺たちの旅」というドラマがありました。中村雅俊・秋野太作・田中建が共演した青春ドラマです。この青春ドラマは、主人公が旅行にでかける物語りではありません。しかし、明確に「旅」を描ききったドラマです。「俺たちの旅」という「旅」を、正面から描ききってた青春ドラマです。
 ドラマ「俺たちの旅」が放映されていた当時は、受験戦争が社会問題になり、人々は、一流高校・一流大学・一流企業をめざし、全ての人生は、「決められたレールの上を走る列車のようなもの」という印象がありました。
 どんなにあがいても、行き着く先は見えている。定年退職という駅。老後という駅。エリートは新幹線に乗り、落ちこぼれは鈍行列車にしかのれない。
 そんな時代背景の中で、ドラマ「俺たちの旅」が放映されたのですが、これが当時の若者の心を圧倒的に揺さぶりました。何故ならば、ドラマ「俺たちの旅」の主人公たちは、世間が用意したレールを、世の中が定めたレールを、片っ端から踏み外し、自由奔放、好き放題、やりたい放題に生きたからです。
 今にして思えば、ドラマ「俺たちの旅」の作者は、「俺たちは旅行者ではない。俺たちは旅人なんだ。自分人生は自分で決める。決められたレールなんてまっぴらごめんだよ」ということを言いたかったのではないか? そんな気がします。


―レール―

 レールの上しか走らない。それは篭の鳥と同じことだと思います。井戸の中の蛙となんら変わらないです。でも、レールを踏み外すことは恐いです。列車から飛び降りることは、とても勇気がいります。やろうたって、なかなかできることではありません。だから二十年前に、ドラマ「俺たちの旅」が大勢の若者に支持されたのです。
「カースケ(中村雅俊)も、グズロク(秋野太作)も、オメダ(田中建)も、やりたいことをやって生きている。勇気ある奴らだ、うらやましいな。俺たちには、とてもレールをはずれる勇気がない」
そう思いながらテレビに釘付けになって見ていたのです。
 かくいう私も、そんな若者の一人でした。レールをはずれて生きてみたい。でも、そんな勇気は持ち合せていない。だから「カースケ(中村雅俊)たちが羨ましい」と思う平凡な中学生でした。
 しかし、この感情を、この気持ちを、現代の中学生(または若者たち)が持ち合せているかどうかは疑問とすることです。実際にレールをはずれて生きるかどうかは別にして、レールをはずれてみたいという欲求が、現代の青少年たちが持っているかどうか?


―夢―

 最近のテレビドラマには、ドラマ「俺たちの旅」のような、旅人の精神を持ち合せたものが少なくなっています。レールをはずれて生きようとするチャレンジ精神旺盛な物語りが少なくなってきています。その代りに陳腐な恋愛物語が幅をきかせています。そのせいか、どうかはわかりませんが、テレビドラマの主人公たちのスケールが、年々小さくなっているような気がしてなりません。
 そういえば最近のテレビドラマには、クサイ演技がなくなりました。昔に較べれば、俳優たちは、リアルな演技をするようになりました。でも、その結果、テレビドラマに夢がなくなってきたような気がします。
 テレビアニメにしたって「巨人の星」のような荒唐無稽な物語りがなくなりました。その代りにリアルで身近に感じる「タッチ」のような物語りが多くなりました。
 これは、良い悪いを別にして、視聴者がテレビドラマに「夢」を求めなくなった証拠のような気がします。現代人は、二十年前に較べて気持ちの上で、現実的なものにしか興味を持たなくなった。そんな気がします。
 それにしても私たちは、いつ頃から夢を失ってしまったんでしょうね。いつ頃から「俺たちの旅」のようなテレビドラマを見なくなってしまったんでしょうね。いつの頃から「自由奔放に生きるカースケ(中村雅俊)たちを、羨ましい」と思わなくなってしまったのでしょうね?

 考えてみれば「夢」というものは、非現実的なものです。非現実的なものだから「夢」。だから、現実的なものしか見えなくなってしまったら「夢」を失ってしまいます。井戸の中しか見えなくなってしまったら「夢」は失ってしまいます。篭の中しか見なくなってしまったら「夢」を無くしてしまいます。レールの上でしか、人生を考えられなくなったら「夢」は消えてしまいます。
 でも、意外に私たちは「夢」を失っていることに気がついてないでいるような気がします。 自分が井戸の中にいることに気がつかないでいる。

 そんな気がします。

 だから今の若者にドラマ「俺たちの旅」を見せても、何の感動もないことは、大いにありえます。「俺たちの旅」という題の持つ意味さえも解らないかもしれません。
「あれ? 旅行のドラマじゃないの?」
なんて言われてしまうかもしれません。現に、十歳年下の弟に、そう言われてしまいました。そんな弟に、「俺たちの旅」というのはな、自分で自分の人生を切り開く男たちの物語りなんだと説明しましたが、弟はまだ首をかしげていました。

 弟は、自分が「レールの上を歩いているだけの存在」とは夢にも思ってないようでした。完全に、自分で自分の人生を決めていると思いこんでいました。でも、私には、とてもそうは思えなかった・・・。

 私は、「自分はレールの上を歩いている」という認識で生きています。私は「自分は井戸の中にいる」と思いこんでる人間です。間違っても、自分が井戸の外にいるとは思っていません。だから「井戸の外に出たい」と思うし、井戸の外に出ている人を「羨ましい」と感じています。けれど弟は、そんなふうに考えてないと言います。この認識のズレは、いったい何なのでしょうか?

 世界中を旅した私ではありますが、とてもじゃないけれど井戸の外に出たとは思ってません。まだまだ知らないことが多いし、自分の持ってる可能性にしても、まだまだ開発されてないと思っています。そして、どうしてもレールの上にしがみついている自分自身の幻影に悩まされてしまいます。
 だから自分自身を開放したいと思ってしまう私です。何から開放したいのかは解りませんが、とにかく自由になりたい。そして大空に羽ばたきたい。機械的な日常生活を続けている時などは、特にそんな気持ちになります。
「これでいいのか?」
「このまま日常に流されてしまっていいのか?」
と思ってしまいます。そして、その気持ちを誰かに打ちあけたりするのですが、なかなか解ってくれる人は少ないですね。


―自覚―

「自分は、井戸の中の蛙ではないか?」
「自分は、鳥篭に飼われている小鳥ではないか?」
「レールの上でしか生きてないのではないか?」

 そんな疑問を持った瞬間、人は旅に出たりします。15年前、私は1年間という途方もない長旅に出かけましたが、私が旅にでた理由は、自分が底なし井戸の中にハマッてしまったことに気がついてしまったからです。自分が必死にレールの上にしがみついていることに気がついてしまった。
 慌てた私は、何もかも捨ててレールから飛びだしました。そして、必死になって底なし井戸を這い上がろうとしました。けれど、いつまでたっても井戸から這い上がることはできません。時には、嫌になってしまうことがあります。
 つまらない私事を話してしまいましたが、「旅人」と「旅人でない人」の差というものは、自分が「井戸の中の蛙である」という認識を持っているか、持っていないかの差であるような気がします。もちろん、自分が「井戸の中の蛙である」という認識を持っている方が、旅人です。旅人でない人というのは、自分が井戸の中にいることさえ気がつかないでいる。そんな感じがします。
 それらを考えあわせると、旅人とは、かなり謙虚な姿勢をもっている人種のような気がします。つまり、つねに自分が、井戸の中にいることを自覚している存在であるということです。そして、井戸の外を見てみたいという願望をもっている存在であるということです。

 自分が「井戸の中にいる」ことを自覚していない人にとっては、井戸の外は見えません。自分が「レールの上を歩いててる」ことを自覚してない人には、レール以外の道は見えません。これは悲しいことです。井戸の外も、レール以外の道も見えないなんて、ちょっと悲しいことだと思います。たとえ井戸の外に出なくても、たとえレール以外の道を歩かないとしても、井戸の外や、レール以外の道の存在を知ることは必要だと思います。でないと「夢」を失ってしまいます。
 「井戸の中」を現実とすれば、「井戸の外」は夢です。とすれば旅人の究極の目的は、ひょっとしたら「夢」をみることなのかもしれません。「夢」の中に入りこむこと。それが「旅」なのかもしれませんね。とすれば、ユースホステルは夢の宝箱と言えなくもないです。
posted by ss at 20:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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