2009年09月22日

俺たちの旅

俺たちの旅


―俺たちの旅―

 二十年前に放送されていたテレビ番組に「俺たちの旅」というドラマがありました。中村雅俊・秋野太作・田中建が共演した青春ドラマです。この青春ドラマは、主人公が旅行にでかける物語りではありません。しかし、明確に「旅」を描ききったドラマです。「俺たちの旅」という「旅」を、正面から描ききってた青春ドラマです。
 ドラマ「俺たちの旅」が放映されていた当時は、受験戦争が社会問題になり、人々は、一流高校・一流大学・一流企業をめざし、全ての人生は、「決められたレールの上を走る列車のようなもの」という印象がありました。
 どんなにあがいても、行き着く先は見えている。定年退職という駅。老後という駅。エリートは新幹線に乗り、落ちこぼれは鈍行列車にしかのれない。
 そんな時代背景の中で、ドラマ「俺たちの旅」が放映されたのですが、これが当時の若者の心を圧倒的に揺さぶりました。何故ならば、ドラマ「俺たちの旅」の主人公たちは、世間が用意したレールを、世の中が定めたレールを、片っ端から踏み外し、自由奔放、好き放題、やりたい放題に生きたからです。
 今にして思えば、ドラマ「俺たちの旅」の作者は、「俺たちは旅行者ではない。俺たちは旅人なんだ。自分人生は自分で決める。決められたレールなんてまっぴらごめんだよ」ということを言いたかったのではないか? そんな気がします。


―レール―

 レールの上しか走らない。それは篭の鳥と同じことだと思います。井戸の中の蛙となんら変わらないです。でも、レールを踏み外すことは恐いです。列車から飛び降りることは、とても勇気がいります。やろうたって、なかなかできることではありません。だから二十年前に、ドラマ「俺たちの旅」が大勢の若者に支持されたのです。
「カースケ(中村雅俊)も、グズロク(秋野太作)も、オメダ(田中建)も、やりたいことをやって生きている。勇気ある奴らだ、うらやましいな。俺たちには、とてもレールをはずれる勇気がない」
そう思いながらテレビに釘付けになって見ていたのです。
 かくいう私も、そんな若者の一人でした。レールをはずれて生きてみたい。でも、そんな勇気は持ち合せていない。だから「カースケ(中村雅俊)たちが羨ましい」と思う平凡な中学生でした。
 しかし、この感情を、この気持ちを、現代の中学生(または若者たち)が持ち合せているかどうかは疑問とすることです。実際にレールをはずれて生きるかどうかは別にして、レールをはずれてみたいという欲求が、現代の青少年たちが持っているかどうか?


―夢―

 最近のテレビドラマには、ドラマ「俺たちの旅」のような、旅人の精神を持ち合せたものが少なくなっています。レールをはずれて生きようとするチャレンジ精神旺盛な物語りが少なくなってきています。その代りに陳腐な恋愛物語が幅をきかせています。そのせいか、どうかはわかりませんが、テレビドラマの主人公たちのスケールが、年々小さくなっているような気がしてなりません。
 そういえば最近のテレビドラマには、クサイ演技がなくなりました。昔に較べれば、俳優たちは、リアルな演技をするようになりました。でも、その結果、テレビドラマに夢がなくなってきたような気がします。
 テレビアニメにしたって「巨人の星」のような荒唐無稽な物語りがなくなりました。その代りにリアルで身近に感じる「タッチ」のような物語りが多くなりました。
 これは、良い悪いを別にして、視聴者がテレビドラマに「夢」を求めなくなった証拠のような気がします。現代人は、二十年前に較べて気持ちの上で、現実的なものにしか興味を持たなくなった。そんな気がします。
 それにしても私たちは、いつ頃から夢を失ってしまったんでしょうね。いつ頃から「俺たちの旅」のようなテレビドラマを見なくなってしまったんでしょうね。いつの頃から「自由奔放に生きるカースケ(中村雅俊)たちを、羨ましい」と思わなくなってしまったのでしょうね?

 考えてみれば「夢」というものは、非現実的なものです。非現実的なものだから「夢」。だから、現実的なものしか見えなくなってしまったら「夢」を失ってしまいます。井戸の中しか見えなくなってしまったら「夢」は失ってしまいます。篭の中しか見なくなってしまったら「夢」を無くしてしまいます。レールの上でしか、人生を考えられなくなったら「夢」は消えてしまいます。
 でも、意外に私たちは「夢」を失っていることに気がついてないでいるような気がします。 自分が井戸の中にいることに気がつかないでいる。

 そんな気がします。

 だから今の若者にドラマ「俺たちの旅」を見せても、何の感動もないことは、大いにありえます。「俺たちの旅」という題の持つ意味さえも解らないかもしれません。
「あれ? 旅行のドラマじゃないの?」
なんて言われてしまうかもしれません。現に、十歳年下の弟に、そう言われてしまいました。そんな弟に、「俺たちの旅」というのはな、自分で自分の人生を切り開く男たちの物語りなんだと説明しましたが、弟はまだ首をかしげていました。

 弟は、自分が「レールの上を歩いているだけの存在」とは夢にも思ってないようでした。完全に、自分で自分の人生を決めていると思いこんでいました。でも、私には、とてもそうは思えなかった・・・。

 私は、「自分はレールの上を歩いている」という認識で生きています。私は「自分は井戸の中にいる」と思いこんでる人間です。間違っても、自分が井戸の外にいるとは思っていません。だから「井戸の外に出たい」と思うし、井戸の外に出ている人を「羨ましい」と感じています。けれど弟は、そんなふうに考えてないと言います。この認識のズレは、いったい何なのでしょうか?

 世界中を旅した私ではありますが、とてもじゃないけれど井戸の外に出たとは思ってません。まだまだ知らないことが多いし、自分の持ってる可能性にしても、まだまだ開発されてないと思っています。そして、どうしてもレールの上にしがみついている自分自身の幻影に悩まされてしまいます。
 だから自分自身を開放したいと思ってしまう私です。何から開放したいのかは解りませんが、とにかく自由になりたい。そして大空に羽ばたきたい。機械的な日常生活を続けている時などは、特にそんな気持ちになります。
「これでいいのか?」
「このまま日常に流されてしまっていいのか?」
と思ってしまいます。そして、その気持ちを誰かに打ちあけたりするのですが、なかなか解ってくれる人は少ないですね。


―自覚―

「自分は、井戸の中の蛙ではないか?」
「自分は、鳥篭に飼われている小鳥ではないか?」
「レールの上でしか生きてないのではないか?」

 そんな疑問を持った瞬間、人は旅に出たりします。15年前、私は1年間という途方もない長旅に出かけましたが、私が旅にでた理由は、自分が底なし井戸の中にハマッてしまったことに気がついてしまったからです。自分が必死にレールの上にしがみついていることに気がついてしまった。
 慌てた私は、何もかも捨ててレールから飛びだしました。そして、必死になって底なし井戸を這い上がろうとしました。けれど、いつまでたっても井戸から這い上がることはできません。時には、嫌になってしまうことがあります。
 つまらない私事を話してしまいましたが、「旅人」と「旅人でない人」の差というものは、自分が「井戸の中の蛙である」という認識を持っているか、持っていないかの差であるような気がします。もちろん、自分が「井戸の中の蛙である」という認識を持っている方が、旅人です。旅人でない人というのは、自分が井戸の中にいることさえ気がつかないでいる。そんな感じがします。
 それらを考えあわせると、旅人とは、かなり謙虚な姿勢をもっている人種のような気がします。つまり、つねに自分が、井戸の中にいることを自覚している存在であるということです。そして、井戸の外を見てみたいという願望をもっている存在であるということです。

 自分が「井戸の中にいる」ことを自覚していない人にとっては、井戸の外は見えません。自分が「レールの上を歩いててる」ことを自覚してない人には、レール以外の道は見えません。これは悲しいことです。井戸の外も、レール以外の道も見えないなんて、ちょっと悲しいことだと思います。たとえ井戸の外に出なくても、たとえレール以外の道を歩かないとしても、井戸の外や、レール以外の道の存在を知ることは必要だと思います。でないと「夢」を失ってしまいます。
 「井戸の中」を現実とすれば、「井戸の外」は夢です。とすれば旅人の究極の目的は、ひょっとしたら「夢」をみることなのかもしれません。「夢」の中に入りこむこと。それが「旅」なのかもしれませんね。とすれば、ユースホステルは夢の宝箱と言えなくもないです。
posted by ss at 20:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。